花瓶や徳利・コーヒーカップ!東北が誇る名門「相馬焼」の秘密!

花瓶や徳利・コーヒーカップ!東北が誇る名門「相馬焼」の秘密!


今や数多く世界中のファンから愛される「JAPANの伝統工芸品」!その中でも「JAPANの焼き物(陶磁器)」バリエーションの豊富さや(国内・海外における)人気度には目を見張るものがあると思います!!最も有名な焼き物ブランドでは、その歴史が深いという意味で「磁器(石を材料にして作る焼き物)の有田焼」そして「陶器(土を材料にして作る焼き物)の美濃焼・瀬戸焼」といったところでしょう(この3つの焼き物ブランドが日本の三大焼き物と呼ばれる作品になります)!!

しかしながら、陶器に関しても、磁器に関しても上の3つ(有田焼・美濃焼・瀬戸焼)にとどまらず、日本の各地域で生産・技術改善・品質改良され、そこから様々なブランドが国内から世界へ輸出されています!!

今回、ご紹介しますのは中でも、東北福島で歴史的に受け継がれる焼き物の名門ブランド「相馬焼」についてご紹介していきます!記事内では、それが名門ブランドとして認知されるようになった歴史的な経緯、相馬焼ならではの美しい特徴と工夫について、最後に(日本の焼き物に興味を抱かれた方のために)相馬焼や日本の焼き物を購入できるおすすめネット(通販)ショップのご紹介という流れでお伝えしてきたいと思います^^!!

江戸時代の元禄年間に、中村藩士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり。浜通り北部は江戸時代の中村藩であり、中村藩は相馬野馬追の伝統を有する為、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれる。中村城下(相馬市中村)の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は大衆向けの民窯として親しまれた。とりわけ、中村藩は陶磁器を特産物として奨励したため、江戸時代末期には100軒近い窯元が誕生し、中には農作との兼業も見受けられた。大堀焼は戊辰戦争後にすっかり衰えたが、第二次世界大戦後に再興し、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受けた。

花瓶や徳利そしてコーヒーカップまで!いったい「相馬焼」ってどんな焼き物なの??

東北を代表する名門焼き物として、その技法が様々な作品に応用されている相馬焼!!

ここでは作品のご紹介の前にいったい「相馬焼」って何なの??といった点について触れていこうと思います^^!!

具体的には「相馬焼がこれまで辿ってきた歴史」と「相馬焼ならではの特徴と美しさ」に関してお伝えしていこうと思います!!

先ず「相馬焼(そうまやき)」という呼び名ですが、意外にも調べると相馬焼ではなく「大堀相馬焼」や「大堀焼」が出てくると思います!実はこれ、違う焼き物を指しているわけではくて、呼び方の違いになります^^「相馬焼」という呼び名は、どうやら旧藩政時代(相馬中村藩時代)に言われていた呼び名らしいです!!現在では、国家の伝統的工芸品指定以降、その焼き物の産地名「大堀」という名をとって「大堀相馬焼(おおほりそうまやき)」と呼ばれるようなったそうです!!

では具体的にその「相馬焼(大堀相馬焼)」と呼ばれる焼き物はいつから現在の福島県で生み出されるようになったのでしょう?そして、その焼き物はどんな特徴と美しさを秘めている伝統工芸品なんでしょう??

ここでは、その点について簡単にお伝えしていきたいと思います^^!!

1690年
大堀相馬焼創業 「大堀相馬焼左馬茶碗」発売
福島県双葉郡浪江町大字大堀一円で生産される焼物の総称です。 旧藩政時代には相馬焼と呼んでいましたが、国の伝統的工芸品指定以後は、産地名である「大堀」の名を入れた大堀相馬焼として広く知られています。

相馬焼の歴史とは:今や花瓶やコーヒカップ、美しい「相馬焼」のルーツは(江戸時代初期)相馬中村藩主が左馬に命じて作らせた土の焼き物!

福島県の有名焼き物ブランド、略称で「大堀焼」と呼ばれる「相馬焼(大堀相馬焼)」が作られる全てのきっかけとなったのは江戸時代の元禄年間(江戸時代初期の1690年)と言われています!!

その元禄年間に地元の中村藩士、半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で焼き物(陶器)の材料として使える陶土を発見し、下人(近世以前に家につき従っていた隷属民)の左馬に命じて日用雑器(日常生活で使ったりするうつわ等)を作らせたのが全ての始まりのようです!!

その活動が活発になるにつれ、同藩はこの焼き物作りの保護や育成を推進化するようになります!その後、江戸時代末期には東北で一番大きな焼き物の産地として知られるようになりました!!

明治以降(戊辰戦争の後)ですが、他の仕事にとって代わる生産者が登場してきたことより、その数は少しづつ減少していき、現在ではわずか24軒の窯元のみが現地で焼き物(相馬焼)を作り続けているらしいです!しかし、なおその文化は途絶えることがなく1978念には国家の伝統工芸品の指定を受けています!今も「(大堀)相馬焼」は東北を代表とする「JAPANの焼き物ブランド」として、福島で力強く生き続けているんですね^^!!

江戸時代の元禄年間に、中村藩士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり。浜通り北部は江戸時代の中村藩であり、中村藩は相馬野馬追の伝統を有する為、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれる。
中村城下(相馬市中村)の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は大衆向けの民窯として親しまれた。とりわけ、中村藩は陶磁器を特産物として奨励したため、江戸時代末期には100軒近い窯元が誕生し、中には農作との兼業も見受けられた。
大堀焼は戊辰戦争後にすっかり衰えたが、第二次世界大戦後に再興し、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受けた。

大堀相馬焼は江戸時代初期(1690年)に作り始められたと言われています。当時その地方を治めていた相馬藩が、焼き物作りを保護、育成したため、江戸時代末期には100余りの窯元が並ぶ、東北地方で一番大きな産地になりました。
明治時代になると、他の仕事に変わる生産者が出て来たこと等から少しずつ数が減り、現在では24軒の窯元が焼き物を作り続けています。これらの窯元は300年の伝統を守りながら、21世紀に向けて新しい製品を作り出す努力をしています

明治期から廃藩置県により藩の援助がなくなったことに加え、交通の発達による他産地との競争激化、さらには戦争による大きな打撃と、太平洋戦争の終結時まで大堀相馬焼は冬の時代を迎えました。 しかし戦後、アメリカへの輸出で産地は協力に立ち上がりました。2011年、東日本大震災により窯元全てが強制退去を余儀なくされます。 しかし「デザイン」と「グローバル」を軸にした大堀相馬焼は再び大きく立ち上がろうとしています。

相馬焼の特徴とは:コーヒーカップや湯呑みで見る!陶器ならではの土の温もり・激しく駆ける馬の絵・二重の層の伝統的な作りの秘密!!

今や徳利、花瓶、コーヒーカップまで様々な作品に相馬焼の伝統技術が応用されています!左写真は、オーソドックスな湯呑みではなく、コーヒーカップの相馬焼をご紹介させていただきました!!

その特徴は大きく分けて三点、一点目に陶器(土を材料として作る焼き物)ならではの温かい触り心地(以下の「松永陶器店」さんの相馬焼ではひび割れの模様を美の特徴として取り上げています)、二点目に激しく駆け抜けていく美しい馬の絵、三点目に器の内部で構成されている二重の層の作りになります!以下では、上記に関連して簡単に、一点目の陶器のひび割れ模様、二点目の馬の絵と三点目の内部の二重層の3つの(相馬焼ならではの)特徴についてご紹介したいと思います^^!!

主要な特徴(1)ひび割れ模様:相馬焼の歴史と有名窯元の間で共有されてきた伝統的な背景模様「青ひび」!細かいひび割れの亀裂をアートとして見るのが特徴!

ひび割れ模様が入っているのが、最初にお伝えしたい相馬焼の特徴になります!素材と釉薬(ゆうやく)を用いて絶妙な焼き具合を判断して、あえてこの「青ひび」と呼ばれる背景模様を作り出しています!!

この「青ひび」を背景色として、メインの馬が中心に描かれます!ただメインの馬の絵(左馬)がより生きるためにも、青ひびの不均一な模様がつけられている感じですね!特に、この青ひびは黒い墨で表現されているためはっきりと映っています!!

貫入音と共に「青ひび」といわれるひび割れが、器全体に拡がって地模様になっています。 ”うつくしまの音 30景”にも選ばれた美しき音色 貫入音(かんにゅうおん)素材と釉薬との収縮率のちがいから、焼いたときの陶器の表面に繊細な音を伴って細かい亀裂が入ります。 これを貫入と呼びます。大堀相馬焼は、この貫入によって「青ひび」の地模様が刻まれます。

この記事のライター

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